2025/10/21 13:37

この数ヶ月、スタジオを作りというクリエイティブな作業と、計算や書類作りといった左脳的な作業に加え、DIYという体力を使う作業と、それに合わせて普段のレッスン、家族の中では母という役割。

これらのことを同時にやっていたことで、脳みそが刺激されたのか(はたまたアドレナリンが出ていたのか)とっても頭が活性化していて、脳みそがどんどん呼び覚まされる「感覚」は快感でもあるんだけど、そういう時って、見えなかった世界が見え出したり、自分の中でモヤモヤしてたことがはっきりしてきたりしてちょっとした居心地の悪さも感じます。

私はもともと正義感が強かったり、理由はわからないけど弱者に目を向けてしまう癖があって、そんな私の中にあるモヤモヤに名前をつけるとしたら「怒り」と名付けるのが一番しっくりくるだろう。

小さなコミュニティの中(例えば家族とか)では、うまく仲介者的な立ち位置に役割を見出して動けるからいいんだけど、大きなコミュニティになると、「弱者が生まれる社会の構造」が気になってしょうがなくなります。
さらに、力を持つ強者が弱者を支配して搾取していることを目の当たりにすると、怒りレベルが結構高い。

よく、ぶつぶつ社会に対して文句言ってらっしゃるご老人を目にするけど、私も将来あんなふうにならないよう気をつけなきゃ。って常日頃から感じてます。笑

気をつけなきゃって自覚しているのにも関わらず、この数ヶ月の私ったら、もう頭の中は、怒りで溢れかえっていた。自分のことを、カンニング山村と呼んでいた。

カンニング山村は、スタジオを作っていたので自然とヨガ業界に目が向いて、そこに対して怒ってました、はい。

ある人が「一見、綺麗なテーマを使いつつ、実は真逆のことをやっている人に対して怒りがある」と言ってて
見事に私の中の怒りを言語化してくれてるーーーと感じた。
私がヨガを伝える中で大事にしている、自分の中のエゴとどう向き合っていくか、などのテーマがあるんだけど、それを逆手にとって、自分の利益のためにおだてたり、褒めたり、餌を与えたりしてる人が目について、そこで一人で怒ってました。そんなんしたらエゴ増幅するやんけ!同じヨガと思われたくないんだけどって。

あと、自分のエゴ丸出しな人や、裏側の人への配慮がないSNS投稿に対しても、怒りが湧いてた。

でも、私がどれだけ怒ってても社会は変わらないんですよね。
私が外に向けて怒りを出してしまうと、私も結局自分の欲求を満たすために行動しているのと同じってことになる。
そこに、じっくり向き合った。
カンニング山村でいたいのか、それともこの怒りのエネルギーを愛に変えていける人になるのか。

自分の中の怒りに向き合い、噛み砕いてみると、弱者が弱者のまま泣き寝入りしなくて済むように私はヨガを練習してることを思い出すことができました。

どんな理不尽な世の中でも、どれだけ傍若無人な人がいても、どんな傷ついた自分になっても、自分だけは最後まで自分の味方でいられるように、私はヨガの練習をする。


怒りは蓋をするものではない。
今弱い立場で苦しんでいて、怒りすら湧かない状況の人もいっぱいいると思う。
弱者ポジションを強いられた人にとって、怒りを感じるって難しいことでもある。麻痺させないとやってられなかっただろうから。

少しでも怒りが湧いてきたら怒っていい。それは自分を変えたい、っていう内側の叫び。
根気強く自分と向き合っていけば、抜け出すことはできるよって伝えたい。

適切に怒る技術。絶賛勉強中です。