2024/10/26 22:23
今日、父方の祖父の33回忌の法要がありました。
65歳で亡くなった祖父の33回忌。
父が30代の頃に、実の父を亡くしたことになります。
死後30年以上経っているともなれば悲しみというより、むしろ、その祖父からするとひ孫にあたる子たちがワイワイと
にぎやかしい中での法事。親戚もたくさん集った。
お経の間、すごい珍事件が起こり、私と妹と夫とが顔を見合わせてしまったところから、プーーーーーッと吹き出して
笑いが止まらなくなり、こらえるのに必死。
3人で必死にこらえたので周りの人には気づかれずに済んだけど、こんなに笑ったのは久しぶりだと思いながら、
祝い事のような空気の中での法事でした。
父は、それまではほとんど実家に寄りつかない息子だったらしく
どんなことを思いその後の自分の人生の歩み方を決め、どんな気持ちで今日という日を迎えているのだろうと思いを馳せました。
物心ついた時には、私にとっての父は、とても恐ろしい存在。
今は穏やかだけど、昔は、機嫌が悪いと本当に怖くて、いつも顔色を窺っていたし、まともに話をした記憶が全くない。
なんだけど、私の中には、父に対してもう一つの思いがある。
父は、8歳の時に母を亡くしていて、それを耳にしたのは幼少期だけど、そんな幼い時ですら、私は多分すごくショックを受けた。
そんな不幸を経験したら、そりゃ人に対して心を閉じるよなぁと幼いながら感じたし、
そんな私は「父を守る」と決め、父が受けたであろう傷をどうにかして癒したい、
それをベースに持ち続けたことが、なんとなく分かってきた。
おととし、3年生くらいの時に私が父に送った手紙が、父の財布の中から出てきて、
つらい時に見ること。困った時にも見ること。って表に書いてあって、開くと
がんばれ!!この先つらいことがあっても、マリの顔を思い出してがんばれ!
って書いてあった。
心理学では、7〜8歳ごろまでに感情を通して学ぶ時期であり、そこから概念の基礎が形成されると言われる。
7〜8歳といえば自分の世界の大半は親なことが多く、なので多くの人が親を通して、世界とのつながりのベースができる。
この数年の自己探究の中で、「自分」というものの構成に、父の生い立ちがとても大きな影響があるということがわかってきた。
根底に、「かわいそうな父に寄り添う」という決意を持ってしまってるから、
普通のティーンエイジャーが楽しめるようなことに興味も持てなかったワケだと納得したし、好きになる人は、大体傷がある人だったのも納得。
この数年、なんとなく自分だけ幸せになってはいけないという、幸せになることへの罪悪感があるなぁとも気づいた。
(こういう話を少人数のイベントの時に、みなさんとじっくり話したりしています)
でも最近、弟の息子(2歳)の顔を見て、幸せが漏れ出してしまっている、くちゃくちゃな顔をしている父を目にしていると
もう、自分に課している罪悪感も、手放す時が近いのかもと思っています。
きっと、親を必要とする年頃に、何よりも大切な親を亡くす、っていう経験は、した人にしか分からない。
その心の傷、ぽっかり空いた穴、虚無感、欠乏感は、すぐに癒るものではないだろうし、もしかしたら死ぬまで持ち続けるのかもしれない。
でも。そんなことを抱えながら、立派に生きたね!!って
今日、父に対してすごく思った。
礼服のまま、夫に柿を取らせる父
夫は、偏屈なうちの父にとても良くしてくれて、二人でお酒を飲みながらよくいろんなことを語り合っている。
私が一生かけて父と会話した時間よりも、きっと長い時間を共に過ごしている。夫には頭が上がりません。
決められた年ごとに行う法事の意義が、少しだけ感じられた今日でした。