2024/10/07 22:47
8月の末から毎週土曜日、6週連続ほぼ日帰りで東京に通うという、一般人のワタクシにはまぁまぁ清水の舞台から飛び降りる系のことをやってきて、なんとか無事、昨日それを終えました。
財布の紐が硬くなったり、時間に追われたりと
すごくハラハラした数週間だったなぁ
ヨガスタジオに学びに行くものの
メインの学びは仏教。
現代ヨガに仏教を組み合わせて伝えるスタイルを、ここまで無理してでもも学びたかったのは、単純に、自分にとって本当に良かったから。
そもそもヨガはインド発祥!
ヒンドゥー教やヴェーダを勉強しないと!って思って先に勉強はしたんです。
でも少し学んで、少し理解はしたものの、今の自分には生活に取り入れるのも伝えるのも、すごく難しい気がしたんですよね、、、
それらはインドの土着的なものに溶け込むカタチで発展してたもの、って認識で合ってるのかな。
インドの子供達が教科書がわりに学ぶものであったり、社会生活を十分に全うしたした後の出家した人が学ぶものって認識があって
ある程度、そんな文化的背景や死生観をも理解していないと難しい。
日本で短時間でサクッと学ぶものではない気がした。出家するってことは俗世の生活からある程度離れるってことだしねー
そんな覚悟を持ってレギンス履いてヨガしてるヨギーヨギーニは、そうそういない。
ヴェーダを勉強してみたいってなった時、社会問題や環境問題にも視点がある先生に学べたのはラッキーだった。
(何年もかけてサンスクリット語からガチで勉強してきたのに、環境のことが気になるからお肉は食べないようにしているけど、食事、ほんと適当!いつもパンとかご飯しか食べてないわーっていう、ゆるいのかゆるくないのか絶妙なところにいる面白い先生です。)
日本をある程度認識した上で、ヨガの先生としてヴェーダの立場からヨガを伝えるって、すごく素晴らしいこと。
自分の性格上、今の自分がそこに立つと、きっと自分を苦しめるだけだろうな、と感じたので、一旦やめました。いさぎよくw
幸せに日々を過ごすためにヨガをしているのに、それによって社会生活を生きにくくしたり、
中途半端な理解のせいで家族や周りの人とのアダルマ(不調和)を起こすくらいなら、もう少し落ち着いてから、腰を据えてゆっくり勉強しようって思いました。その時はこの先生に学ぶと決めている。
仏教は、さすが一切皆苦という教えがめっちゃ先に出てくるだけあって、本当に苦しみへの全ての答えが用意されているんだなーと感じたし、私にとっても仏教(厳密にいうとマインドフルネス瞑想)が、具体的に役に立ったことで
これをやっていくことにとても価値を感じたわけです。
心の動きを止滅させるというヨーガスートラの教えやそこに向かうプロセスもすごく大事だなーって思ってきたけど
ここだけの話、ヨガの時間やヨガした後は平和〜って感じてても、それ以外の生活の中で、イライラして自分を責めてり落ち込んでる人って、本当に多い気がする。(過去の自分も含めて)
日々の生活が大事だからヨガをしているし
大切にしたい人をリアルな言動でちゃんと大切にできる自分になるためにヨガをしていたはずなのに
この数年、富山でのヨガを盛り上げたいという自分の中のミッションのために、ヨガのイベントを精力的にやってきたんだけど
それが、どこかで目的が入れ替わってしまっていたことに気づき、気づいた時には遅くて、途中ですごく自分を責めていた時期がある。
そんな時って不思議と、周りからも責められるんですよね。
すごくしんどい出来事も起こった。
家族には莫大な心配や迷惑をかけたし、振り返っても「ごめん」しか出てこない。
そんな絶望を感じたところに、希望を取り戻すきっかけをくれたのが、マインドフルネス瞑想だったのです。
これまたラッキーなことにこの時出会ったマインドフルネス瞑想の先生は、ビジネスの中で流行ってるマインドフルネスではなく
しっかり仏教の教えから伝えてくれる先生だったのです。
私は、先生に出会う運には恵まれているんだなぁと思った。
長くなったので、続きはまた書きたくなったら書きます。
いつになるかなぁ